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2011年8月16日 (火)

清志郎なら

こんな記事があった。
『特集ワイド:この夏に会いたい/8 ロック歌手・忌野清志郎さん』
http://mainichi.jp/select/wadai/archive/news/2011/08/15/20110815dde012040002000c.html

『◆ロック歌手 忌野清志郎さん(2009年死去、享年58)

 ◇サマータイム・ブルース ユーモアの中の叫び
 「3・11の大震災があって、原発事故が起きた時、すぐに彼のことを思いました。こんな時、彼なら、なんて言っただろうって。それは米国で9・11テロが起きた時、ジョン・レノンが生きていたら、どんなふうにコメントしただろう、と考えるのと同じような感覚だと思うんですよ」

 彼とは、「ロックの神様」と呼ばれたロックシンガー、忌野清志郎さん。2009年5月2日に亡くなった。冒頭のように話すのは、忌野さんが率いたRCサクセションが「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」のヒットでブレークした1980年の前後3年間、キティレコード(当時)で担当ディレクターを務めた森川欣信(よしのぶ)さん(58)だ。

 東京電力福島第1原発事故の深刻な状況が明らかになるにつれ、クローズアップされたのが、RCが88年に発表したアルバム「COVERS(カバーズ)」。洋楽に忌野さんが独自の訳詞をつけた異色の作品。なかでも、夏に海へ泳ぎに行ったら<♪原子力発電所が建っていた さっぱりわかんねえ 何のため?><♪要らねえ 危ねえ>とうたった「サマータイム・ブルース」は、反原発ソングとして事故後、ユーチューブの再生回数が急上昇し、ラジオ番組には多くのリクエストが寄せられた。国内各地で行われる反原発集会でも流されている。

 「なんか不思議な感じがするんですよ。23年前に、彼は原発は必要ないとうたっていた。86年にチェルノブイリ原発事故があった後とはいえ、あの時は、みんな『清志郎、またお騒がせだな』ぐらいにしか思っていなかったのでは。でも実際に、未曽有の地震と原発事故が起きた時に、あれだけ警告を発していた彼はもういない。だからこそ、彼が残したメッセージは重みを増すのでしょうけど」

 森川さんは現在、山崎まさよしさん、元ちとせさんらが所属する音楽事務所「オフィスオーガスタ」の代表を務める。92年の設立以来、東電のCMへの楽曲提供を断ってきたという。「そんな方針を掲げたのも、清志郎と関わってきたからだと思います。清志郎や私が10代半ばのころはベトナム戦争の時代で、ボブ・ディランやビートルズが反戦を訴えていた。今は、もの言わぬ時代になってしまったが、音楽にはメッセージを込めて社会に目を向けさせる力もあるんです。しかも、清志郎の歌は堅苦しくならず、必ずユーモアが含まれている。ユーモアとは何かといったら、人間的ということじゃないかな」

 ■

 「カバーズ」は当時、東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)が突然、発売を中止したことでも話題を呼んだ。原子炉メーカーでもある親会社に配慮したのでは、といわれた。

 「最高のできなのに、誠に申し訳ない」。当時、忌野さんにそう告げたのが、東芝EMIの邦楽部門の最高責任者だった石坂敬一さん(65)。現在はユニバーサルミュージックの相談役を務める。「ホテルオークラに一室とって、清志郎とマネジャー、担当ディレクターと私の4人が向かい合っていました。事情を説明すると、清志郎はテーブルをドンとたたいて、灰皿を投げた。『許せねえ』って言ってね。随分、芝居がかっていましたが、明らかに外して投げていましたね。誰も傷つけず、備品も壊さず。そこが、彼の優しさなんです」

 88年6月22日付の新聞に「素晴しすぎて発売出来ません」という広告が載る。「すごい圧力はなかったと思いますが、子会社が自粛したような格好だったかな……。親会社の立場を考えてという」と、石坂さんは振り返る。結局、「カバーズ」はRCが以前所属していたキティからこの年の8月15日に発売され、RC唯一のオリコン1位を獲得。それでも、次の作品からは東芝EMIに復帰した。

 阪神大震災があった95年。忌野さんは<♪がれきの街に 花が芽を吹くさ>とうたった被災地応援ソング「サヨナラはしない」を作り、CDの印税を義援金として寄付した。今回の震災では、どうしただろうか。石坂さんは「清志郎は常に大衆に目線を置いて考え、行動する人でした。被災地の惨状を知ったら、バンドのトラックに食料を詰め込んで、現地に炊き出しに行き、被災者を励ましたでしょう」と話す。

 ■

 あの人にも話を聞かねばならない。RCがもっとも輝いていた80年代にギターを担当した盟友、チャボこと仲井戸麗市さん(60)。ラジオ番組の収録後、渋谷のカフェで会った。

 三回忌にあたる5月2日、東京・日本武道館で開かれた追悼ライブでもギターを弾いた仲井戸さん。「頭の中ではちゃんと現実を認識しなきゃと思うんだけど、どうしてもステージに立っているときなんかに、ふと現れてきちゃいそうな気がするんです。あいつ、よく寝坊してたから、『ごめん、遅れちゃって』なんて言って出てきそうで……」

 今も友の死の実感をもてない、という思いがぬぐいきれないという。

 「彼がいたらというイフはありえないんだけど、(震災に直面したら)『どうかね、チャボ』って連絡してきたと思いますね。あいつは結構自分からも出て行くタイプだから、いろんな仲間に声をかけて、その中に、俺も入っていたんじゃないかな」

 「どんな歌を作ったかって? ソングライターとしての彼のスタイルは、俺もそうなんだけど、物語を設定して書くタイプじゃない。日記ではないけれど、自分の周りに起こったこととか、感じたことを歌に投影していくタイプだから、当然、震災のことも、歌になって出てきたはずだよ。清志郎君は、きっと、今回のことを歌にしたと思う」。慎重に言葉を選んでいた仲井戸さんが、ここだけは言い切った。

 「彼の死後、再評価する声がたくさん出てきて、それはうれしい事だけど、彼、本人はもういないからね……」と仲井戸さん。

 忌野さんは東京・八王子の高尾霊園高乗寺に眠る。墓石の前には、トレードマークのウサギの像が腰かけ、ギターをつまびいていた。墓前で手を合わせながらなお、忌野さんが生きていたら、なんて言っただろう、と問いかけずにはいられない。森川さんはこう想像する。

 「『だから言わんこっちゃないぜ ベイベー』って思っただろうし、これだけの事故が起きてなお推進を唱えている人たちに対して『それなら使用済み核燃料はどこに捨てるの』って矛盾をついたんじゃないでしょうか。彼はただ反対じゃなくて、当時から自然エネルギーに替えてもいいんじゃないかって話していました」

 忌野さんが愛用の自転車「オレンジ号」に乗っている光景が目に浮かんだ。そしてあのフレーズも……。

 愛しあってるかい?【大槻英二】

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 ■人物略歴

 ◇いまわの・きよしろう
 1951年東京都生まれ。高校卒業間際の70年にRCサクセションでデビュー。亡くなる3カ月前に録音された「Oh!RADIO(オーラジオ)」が遺作。

毎日新聞 2011年8月15日 東京夕刊 』

森川さん、偉い!

しかし、最後の人物略歴は、略しすぎだ。

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